01
「社会を知らない先生」に
なりたくなかった
もともとは、最初から教育の道を目指されていたのでしょうか。
両親も教育者で、親戚がすごく多い大家族のなかで育ったので、小さい子の面倒を見るのは当たり前の環境でした。ただ、大学を出てストレートで教職に就くのは、なんだか社会を知らなさすぎる気がして。まずは民間企業を知ろうと建設コンサルタントの会社に入ったのですが、そこは1年3ヶ月で辞めて、アルバイトをしながら通信大学で2年かけて免許を取りました。
周りが4年かけてやることを2年でギュッと集中して取る、その方が自分らしいなと。当時は理科の支援員として学校現場に入り、実験の準備をしたり先生方のサポートをしたり。まずは一人の人間として、等身大で子供たちと過ごす時間を大切にする。そこから始まった準備期間ですね。
02
走った跡が「線」になる、
その発見がすべてを変えた
GPSランナーとしての活動、そのきっかけは何だったのですか?
2016年、地元・西宮の小学校で担任を持ち、3年目に出会った車椅子の男の子の存在が大きかったですね。体の自由が利かない中でも、タブレットをタップして操作し、楽しそうに笑う姿が忘れられなくて。この子が心から楽しめるスポーツ、この子が輝ける種目を作りたいと、強く思うようになりました。
そんなとき、ふと地元・西宮神社の地図を眺めていたら、道筋が漢字の「西」に見えたんですよね。「福男で走るのもいいけど、ここで何か描いた方がおもろいんちゃうか」って思っちゃって(笑)。バレンタインデーに合わせて、地元に告白する意味を込めて「西宮LOVE」と描いてみました、これが原点ですね。アプリにクッキリと自分の走った跡が残るのを見た瞬間、「これだ!」と直感して。「速さやタイムを競うのではなく、描くことを楽しむスポーツ」なら、誰もが主役になれる。GPSアートに可能性を懸ける日々は、ここから始まりました。
03
台湾で肌で感じた
「自分の情熱が、誰かの希望になる瞬間」
公務員という安定を捨てて、どうして独立しようと思われたのですか?
東日本大震災の後、父が立ち上げたボランティアチームの一員として、何度も東北へ通っていました。そこで出会ったおばあちゃんから「台湾が寄付で病院を建ててくれたんだよ」と聞いたんです。日本人として、いつかお礼がしたい――そう思っていた矢先、2018年2月6日に台湾で大きな地震が起きました。
同年のゴールデンウィーク、現地へ向かい、「日本♡台湾」「花蓮加油」という復興メッセージを走って描きました。その後、この想いは一度きりでは終わらず、2019年には「日本♡台湾」の旗を自転車に括り付けて台湾を一周。さらに2023年には、自分の足で台湾を一周し、「LOVE」という台日友好のメッセージを描きました。
この「LOVE」を描いたときには、その様子がニュースとして取り上げられ、僕の姿を見た人たちが一人、また一人と「一緒に走りたい」と集まってきてくれて。気づけば、300人もの大きな輪になっていました。
コンビニの前でおじさんにビールを差し出されながら「ナオキ、ありがとう」と言われたとき、自分の情熱が誰かの希望に変わるのを肌で感じたんです。そこから2年ほど、二足のわらじを続けながら覚悟を固めていって。受け持っていた子供たちが小学校を卒業するタイミングで、「GPSランナーとして生きていく」と決意し、僕自身も「先生」を卒業しました。安定を捨てることに周囲からは猛反対されましたが、全く迷いはなかったですね。
04
予期せぬ出来事が教えてくれた、
世界の優しさ
実際に教師を辞めて飛び出してみて、いかがでしたか。
ペルーに乗り込んだ時は、想像を絶する「洗礼」の連続でしたね(笑)。行くからには心で会話したいと、出発前に500時間かけてスペイン語を猛勉強していたのですが、現実はその上をいっていて(笑)。
プロジェクト直前に、信頼していた現地協力者に予算の半分の3,000ドルを預けたまま音信不通になってしまったんです。目の前が真っ暗になりましたが、SNSで「助けてくれ!」と発信し続けたら、現地の人や日系人の方たちが「日本への恩を返すのは今だ」と次々に立ち上がってくれて。アンデスの村では、大切なおもてなし料理「クイ(食用モルモット)」の丸焼きをみんなで囲んだり。
面白い出来事もありましたよ。標高4,000mのアンデス山脈を移動中、タクシーの運転手が突然車を止めて「ここで降りろ」と言いだしたんです。理由を聞いたら「彼女を迎えに行かないといけなくなったから」って(笑)。酸素も薄い山中に放り出されて、もう笑うしかなかったです(笑)。
でも、そんな極限状態だったからこそ、人の温かさが骨身に沁みるんですよね。砂漠地帯で野犬に囲まれた時も、サポートカーのダニエルさんが「吠えたらすぐ手を挙げろ、車を壁にしてやるから」と命がけで守ってくれた。3,000ドル失った代わりに、それ以上の価値がある深い絆と「世界は優しい人で溢れている」という確信することが出来ました。
05
日本列島をキャンバスに描いた、
能登への祈り
その後、日本一周3,700キロという壮大な挑戦もありましたが、あれはどんな想いから?
きっかけは能登半島の震災です。地図を眺めていた時、能登半島の形が突き出された「右手」に見えて。そこから山口県が右足、紀伊半島が曲げた左足……と繋いでいく中で、能登の復興に向けて駆け出す「一人のランナー」の姿を表現できるのではないかと考えました。
このランナーは、被災地へ想いを寄せる"誰か一人"ではなく、日本中の人々そのものです。全国の方々を巻き込みながら、復興へ向かうエネルギーを生み出したい――その一心で、3,700キロの道のりへ飛び出しました。
SNSで発信を続けると、道端で待っていてくれる人がいたり、温かい飲み物を差し入れてくれる人がいたり。全国で想像以上の反響が返ってきたんですよ。
行く先々で出会った方々も、「ナオキ、今日はうちに泊まっていけ!飯も用意して待ってるぞ!」と、温かく招き入れてくれて。ホテルに泊まったのは、全行程でわずか4日間だけでした。それ以外の日はすべて、全国の皆さんの厚意に支えられて走り切ることができたんです。ゴールしたとき、心に残っていたのは、日本中で出会った人たちの笑顔と、その一人ひとりとのやり取りでした。どうせやるなら「おもろい方」へ――そう決めて、自分が本気で楽しみながら動いていくと、不思議と素敵な人が集まってくる。そして、その輪が広がるほどに、ひとりでは生み出せないような大きなエネルギーが生まれていく。日本という国の、そして人の底知れない温かさを再確認する旅になりましたね。
06
世界11カ国へ。
笑顔の印で地球を包む挑戦
いよいよ新たなプロジェクト、世界11カ国を巡る「ELEVEN RUN」が始まりますね。
今回は「地球一周」というスケールに挑戦します。まずは北中南米を中心に11カ国を巡り、それぞれの国で、現地の方々に喜んでもらえる、心に残るような作品を描いていきたいと考えています。
その後も旅は続き、+αで世界を一周しながら日本への帰国を目指します。最終的には、20〜30カ国にわたるすべての軌跡をつなぎ合わせ、地球全体をキャンバスに「SMILE」という文字を描き出す計画です。
GPSアートは、言葉が通じなくても走った軌跡を見せるだけで心が通じ合う最高のツール。この挑戦を通じて、国境や言語の壁を越えたポジティブな連鎖を可視化したいと思っています。
そして何より伝えたいのは、これが「競わないスポーツ」だということです。速さや距離を競うのではなく、何を描き、誰と出会い、どんな笑顔が生まれたか。そんな「優しさの指標」で成り立つ新しいスポーツ文化を、世界中の人たちと一緒に創っていきたい。僕は今、まさにその第一歩を踏み出そうとしているところです。
07
おもろい方へ飛び込めば、
世界はあなたの味方になる
最後に、今まさに新しい一歩を踏み出そうとしている人へメッセージをお願いします。
新しいことをしようとすると、一番ブレーキをかけるのは実は身近な人だったりします。家族や友人、心配だからこそ止めてくるんですよね。でも、だからこそ僕は、チャレンジする人を応援する側でありたいんです。
自分が「おもろい」と信じたなら、まずは飛び込んでみてほしい。おもろい方へ行けば、同じエネルギーの人が集まって、それが連鎖してさらに同じエネルギーの人が集まって、すごいパワーになるんです。「止まったら死んでしまう」……それくらいの覚悟で飛び込めば、世界は思っている以上に、あなたの味方になってくれますよ。